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  • 序 章 1842~1925
  • 第1章 1925~1945
  • 第2章 1945~1966
  • 第3章 1966~1993
  • 第4章 1993~2018
  • 宝グループのあゆみ

    第2章 復興から高度成長 1945~1966 (昭和20~41)

    事業拡大とビールへの挑戦

    1.戦後復興に向けて再始動

    1945年イメージ 1945
    第3代社長に大宮庫吉就任

    1945(昭和20)年8月15日、太平洋戦争が終結。日本社会は混乱と困窮の最中にありました。寳酒造も満州松竹梅酒造をはじめとする海外の資産はすべて接収され、国内の工場は荒廃。生産を再開しようにも焼酎の原料どころか、食料の米や芋にさえ事欠く有り様でした。さらに追い打ちをかけたのが相次ぐ悲報でした。初代社長の四方卯三郎、続いて第2代社長の四方秀三郎が逝去。深い悲しみに包まれるなか、先代の遺志を継ぎ、社業を継続発展させる使命を担うべく、同年12月、大宮庫吉(写真)が第3代社長に就任しました。

    1946年イメージ 1946
    社是「三重三慎」制定

    1946(昭和21)年の仕事始めにあたり、大宮庫吉は社是「三重三慎(さんちょうさんしん)」を発表しました。創業以来、「和」を以って会社経営の第一義としてきましたが、会社の機構が複雑化するなか、より具体的な規定が必要と考えたためでした。
    「三重」とは、一.礼節を重んずべきこと
           一.法規を重んずべきこと
           一.信義を重んずべきこと*
    「三慎」とは、一.言行を慎むべきこと
           一.火気を慎むべきこと
           一.機械を慎むべきこと
    さらに、実践にあたっては「忍」の一字が大切と力説した庫吉は、この精神の下に協力一致して勇往邁進したいと力強く社員を鼓舞したのです。(写真は大宮庫吉社長就任当時の記念撮影)
    *1965年「信義」を「責任」に改正

    1947年イメージ 1947
    買収合併で復興に弾み

    1947(昭和22)年6月、傍系の大黒葡萄酒が福島県に所有していた工場を買収・改修して白河工場(写真)とし、焼酎、ワイン、ウイスキー、ブランデーなどの製造を開始しました。同年には独占禁止法の全面実施に伴い、大黒葡萄酒と松竹梅酒造が系列から離れ、独立経営されることとなりました。またその一方で寳酒造は、日本酒精(株)、旭酒造(株)の吸収合併に踏み切り、これに成功し、復興に向けた基盤が完成しました。

    2.「庶民の酒」焼酎に人気沸騰

    1949年イメージ 1949
    自由販売再開とともに焼酎が躍進

    1949(昭和24)年、酒類配給公団が廃止され、さらに原料用の甘藷の統制も終了し、自由販売が開始されると、比較的値段の安い「庶民の酒」焼酎の需要は急増。1949(昭和24)年度、焼酎の販売量は全酒類のトップに躍進しました。宝の壜詰め焼酎、壺入り焼酎にも注文が殺到し、需要に応じきれないほどの活況を呈しました。 なおこの年、証券取引所が開設され、寳酒造も株式を上場しました。(写真は寶焼酎の広告)

    1950年イメージ 1950
    焼酎のトップブランドとして大きく成長

    1950(昭和25)年、朝鮮戦争に伴う特需により、日本経済はにわかに好況に転じ、焼酎人気はますます高まりを見せました。しかし、製造業者の乱立や販売競争激化で焼酎業界は混乱し、ついに大蔵省令による出荷規制を受けるまでに。こうした情勢下にあっても、「寶焼酎」の勢いはとどまるところを知らず、トップブランドとして不動の地位を築いていきました。なかでも1950(昭和25)年の大特売時には、全工場がフル稼働しても生産が間に合わないほどでした。(写真は寶焼酎の壜詰風景)

    3.大型合併と生産基盤の拡充

    1951年イメージ 1951
    第4代社長に田中豐が就任

    寳酒造は1950(昭和25)年、創立25周年を迎えました。翌1951(昭和26)年、大宮庫吉は会長に就き、第4代社長に田中豐(写真)が就任。新体制では大型合併や増資に積極的に取り組み、拡大路線を継続しました。

    1952年イメージ 1952
    中央酒類合併、醸造用アルコール大手に

    1952(昭和27)年、中央酒類(株)を合併したことにより、寳酒造は醸造用アルコールの分野でも国内有数の大手メーカーとなりました。中央酒類が買収していた元松竹梅酒造の灘・魚崎工場も、再び自社工場となりました。また同年、官営アルコール工場の民間払い下げが実施され、長崎の島原工場、宮崎の高鍋工場(現黒壁蔵)を落札したほか、1954(昭和29)年には摂津酒造(株)より灘第二工場(現白壁蔵・写真)を買収するなど、生産基盤は全国14カ所とさらに拡充されました。

    4.焼酎低迷とみりんの家庭への普及

    1955年イメージ 1955
    生活の質的向上と焼酎の低迷

    戦後復興期に「庶民の酒」と親しまれた焼酎も、高度成長で生活水準の向上が進むなか、次第に魅力を失っていきました。ビールやウイスキーなどの洋酒人気に押され、「寶焼酎」も1955(昭和30)年をピークに下落傾向となりましたが、逆境にあっても焼酎の品質改善に邁進。1963(昭和38)年には業界初の減圧蒸留法を採用し、不純物のほとんどない無味無臭のアルコールを得ることに成功したほか、新製品開発にも力を注ぎ、「チューロック」「ホワイトドッグ」「三十度寶焼酎」(写真)を発売。洋酒人気にも応え、国産ウイスキー「キング」「アイデアル」、「タカラポートワイン」などラインアップを強化し、酒類の総合化に向けた布石を着々と打っていきました。

    1959年イメージ 1959
    業務用から家庭用へ、みりんの普及と減税

    焼酎と並ぶ事業の柱であるみりんは、もともと高級酒であり、酒税率も高かったため1950年代半ばにはまだ業務用中心で、家庭で気楽に買える価格ではありませんでした。こうしたことから、みりん製造業者有志による「全国味淋協会」が発足。積極的な減税運動を展開したことにより、1959(昭和34)年、1962(昭和37)年と二度にわたる減税が実施され、みりんの酒税は半分以下になり、買い求めやすい価格となりました。同時にPR活動にも力を入れ、全国各地で料理教室などのイベントを開催。これらの取り組みが相乗効果を生み、みりんの家庭用需要は順調に拡大していきました。(写真は減税による値下げを告知するポスター)

    5.ビールへの挑戦と挫折

    1954年イメージ 1954
    念願のビール事業へ

    1954(昭和29)年、寳酒造はビール事業参入の大きな決断を下しました。大宮庫吉は参入準備のための欧米視察に出発。技術者2名とともに、イタリアからドイツ・ミュンヘンに渡り、ビール製造機械メーカーのスタイネッカー社を訪れ、諸機械の購入仮契約を結びます。その後、フランス、イギリス、アメリカの酒造メーカーを視察し、多大な収穫を得て帰国の途に就きました。帰国後、木崎工場におけるビール製造の認可を当局に申請し、翌1955(昭和30)年に認可を得ました。製品開発では、既存の他社製品を凌駕するほどの品質をめざし、研究員をドイツに派遣するなど研鑽に研鑽を重ねました。(写真は羽田空港を発つ大宮庫吉会長)

    1957年イメージ 1957
    「タカラビール」発売

    1957(昭和32)年、ついに「タカラビール」が発売されました。ドイツ風の苦みが強い本格志向の味わい、容器は業界初の500ml中壜を採用。しかし、既存メーカーの強固な特約店制度の壁は予想以上に厚く、販売網が整備できず、自ら販社を設立して卸売りを行うなど苦難を強いられました。1962(昭和37)年には関西圏の需要増を狙い京都麦酒工場を新設。それでも事態は好転しませんでした。かつてない苦境に陥った寳酒造は、大宮庫吉が第5代社長を兼務して巻き返しをはかりましたが、1967(昭和42)年、ついにビール事業からの撤退を決断。木崎工場、京都工場の操業を停止しました。(写真は初代タカラビールと京都麦酒工場)

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