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  • 序 章 1842~1925
  • 第1章 1925~1945
  • 第2章 1945~1966
  • 第3章 1966~1993
  • 第4章 1993~2017
  • 宝グループのあゆみ

    序章 寳酒造前史 1842~1925(天保13~大正14)

    卯三郎と庫吉─宝グループの歴史を開いた運命の出会い

    1.京都・伏見で酒造業を始める

    1842
    伏見酒造家の仲間入りを果たす

    江戸時代後期の1842(天保13)年、京都・伏見の竹中町で、四方(よも)家4代目卯之助が清酒180石(1石=180L)の製造・販売権利(酒造株)の譲渡を受け、伏見酒造家28軒の仲間入りを果たしました。当時の生産品目は、冬季に清酒を200石程度、夏季に甘酒を300石程度でした。

    1897年イメージ 1897
    「寶」の商標をみりんで登録

    酒造業を一時休業したのち、1864(元治元)年頃、5代目卯之助は再び酒造業を興し、焼酎、みりん、白酒の製造を開始。並々ならぬ努力で家業を発展させ、明治中期には生産高1,000石まで拡大し、伏見とその近郊を中心に、大阪、滋賀方面にまで販路を拡大しました。また1897(明治30)年、「寶」印の商標(写真)をみりんにおいて最初に登録しました。

    2.合名会社誕生、東京市場へ

    1905年イメージ 1905
    四方合名会社設立

    その後も発展を続けた四方家は、日露戦争後の好景気に沸く1905(明治38)年、念願の四方合名会社を設立しました。代表社員には当初、四方秀三郎(ひでさぶろう)が就きましたが、1年余りの後、四方卯三郎(うさぶろう)(写真)が就任しました。

    1913年イメージ 1913
    宮内省御用達の栄誉に輝く

    四方合名は販売網の拡充に力を注ぎ、会社設立5年後の1910(明治43)年、主力商品のみりんで東京に進出。当時、名だたる銘柄のみりんが市場を席巻していた東京で、根気強く得意先回りを続けました。その熱意と努力が結実し、四方合名の「寶味淋」は他社に勝るとも劣らないと高い評価を受け、1913(大正2)年には宮内省御用達の栄誉に輝きました。(写真は宮内省御用達を謳う昭和初期のポスター)

    3.新式焼酎との出会い

    1912年イメージ 1912
    「関東一手販売」の契約を獲る

    みりんに続いて四方合名が着目したのが、現在の甲類焼酎の原型でもある新式焼酎です。愛媛県宇和島の日本酒精(株)が開発した「日の本焼酎」*は、品質・価格ともに従来の粕取焼酎を凌駕し、人気は日増しに高まっていました。そこで、同社と交渉して「関東一手販売」の契約を締結。1912(大正元)年、「寶」の商標で新式焼酎を東京市場に送り込むと、たちまち市場を席巻し、注文が殺到して供給が追いつかないほどの売れ行きでした。(写真は「日の本焼酎」看板)

    *日の本焼酎

    芋を原料とするアルコールに加水し、粕取焼酎をブレンドしたもの。

    1916年イメージ 1916
    新式焼酎生みの親、大宮庫吉を招聘

    新式焼酎の販売は上々の滑り出しでしたが、自社生産への想いを募らせた四方卯三郎は1916(大正5)年、「日の本焼酎」を開発した技師兼工場長・大宮庫吉(くらきち)(写真)を招聘します。当時30歳の大宮庫吉は、自ら事業を経営する志を持っていたが、誠実な四方卯三郎の人柄に魅了され、入社を決断。この卯三郎との出会いは、のちに庫吉自身が「これが宿縁というものであろうか」と振り返っているとおり、二人にとっても四方合名にとっても、まさに運命的なものでした。

    1916年イメージ 1916
    自社製造の「寶焼酎」発売

    1916(大正5)年、四方合名に入社した大宮庫吉は、ただちに新式焼酎の製造を実現すべく、最新鋭のイルゲス式連続蒸留機を備えた新工場を京都・伏見に完成させ、自社製造の新式焼酎「寶焼酎」を世に送り出しました。また、新式焼酎を原料に用いた新式みりん「寶味淋」の製造も開始しました。その後、1918(大正7)年には第二工場を、1920(大正9)年には第三工場を伏見に建設しました。(写真は建設中の第二工場)

    1918年イメージ 1918
    「米を原料とせざる酒」で名声を得る

    四方合名は販売面でも斬新なアイデアを次々に打ち出し、「寶焼酎」は爆発的な売れ行きを見せました。1918(大正7)年に「米騒動」が起こると、米を原料とする酒は生産中止との風潮が高まりましたが、当時の新式焼酎は芋が原料。「四方合名の焼酎は、米を原料とせざる酒である」と大々的に宣伝したことで、さらに焼酎人気に拍車をかけました。また、これを機に「壜詰め焼酎」の販売を開始。当時は量り売りが一般的だった酒屋での売買時の手間を減らそうと考えたことが評判を呼び、「寶焼酎」の名声はますます高まりました。(写真は大正時代のポスターと昭和初期の寶焼酎壜詰)

    4.震災を機に育まれた特約店との絆

    1923年イメージ 1923
    関東大震災発生、いち早く被災地へ

    1923(大正12)年9月1日の関東大震災は、死者・行方不明者約10万5,000人、全壊建物約11万棟という甚大な被害をもたらしました。大宮庫吉らは早速東京へ向かい、焼け野原のなか徒歩で特約店や販売店の避難先を一軒一軒見舞って営業の早期再開を願い激励。伏見の在庫品をすべて東京へ送るように指示しました。届いた商品は、当の庫吉が驚くほど喜ばれ、いち早く見舞いに駆けつけたことで、特約店との間にも深い絆が結ばれました。(写真は関東大震災で壊滅した東京・浅草)

    1924年イメージ 1924
    木崎工場新設、関東での生産開始

    関東大震災は、酒類の流通にも影響を及ぼしました。江戸時代に上方で生産された清酒である下り酒の流通を独占していた下り酒問屋は震災で壊滅的な打撃を被り、代わって関東産を扱う地廻り酒問屋や醤油問屋など新興の酒類卸が台頭し、特約店として酒類メーカーと契約を結ぶようになりました。こうした流通の変化に素早く対応し、震災復興を通じて特約店との絆も強めた四方合名でしたが、問題は商品の供給でした。伏見から船や貨車、荷馬車を使っての輸送は時間も経費もかかるため、関東での生産拠点建設を決断。震災翌年の1924(大正13)年、群馬県木崎町(現太田市)で新工場建設に着工。同年9月、年産3万石の木崎工場(写真)が操業を開始しました。

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