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  • 序 章 1842~1925
  • 第1章 1925~1945
  • 第2章 1945~1966
  • 第3章 1966~1993
  • 第4章 1993~2017
  • 宝グループのあゆみ

    第3章 事業基盤の再構築1966~1993(昭和41~平成5)

    和酒での復活とさらなる成長の模索、そして競争時代へ

    1.事業基盤の再構築

    1966年イメージ 1966
    第6代社長に大宮隆が就任、事業改革に着手

    1966(昭和41)年、社業を託された大宮隆(写真)が第6代社長に就任しました。翌1967(昭和42)年、ビール事業からの撤退を決定すると、ただちに事業構造改革に着手。「焼酎」「清酒」「みりん」「研究所」の4つを経営の柱に、寳酒造の再生をめざしました。

    1968年イメージ 1968
    松竹梅「慶祝(よろこび)路線」で躍進

    再生への努力が実を結んだのは、清酒「松竹梅」でした。「松竹梅」の慶祝イメージを活かしたブランドの再確立をめざして「CHARM(チャーム)作戦」を始動。1968(昭和43)年に発売した松竹梅〈たけ〉は、軽くて持ち運びに便利な竹型樹脂容器がレジャーブームと相まって大ヒット。1970(昭和45)年には石原裕次郎(写真)を「松竹梅」の広告宣伝に起用、1972(昭和47)年、「慶祝(よろこび)路線」へと進化させ、慶祝贈答市場でNo.1の地位を獲得しました。

    1969年イメージ 1969
    「寶味淋」から「タカラみりん」へ

    1969(昭和44)年、減税によって買い求めやすくなったみりんの消費量が拡大するなか、「奥さんの使いやすさを考えました」をキャッチフレーズに、軽くて割れない新容器のタカラみりん「ミリパック」(写真)を発売。親しみやすさを強調するため、ラベル表示も従来の「寶味淋」から「タカラみりん」へと改めました。一方、加工用調味料にも本格的に取り組み、ちくわ、かまぼこなど水産練製品用の発酵調味液「味しるべ」を開発しました。

    1970年イメージ 1970
    中央研究所竣工

    1967(昭和42)年、京都市伏見区の酒精研究所を中央研究所に名称変更し、1970(昭和45)年には滋賀県大津市に移設しました。最新鋭の実験設備を整え、酒類事業で培った微生物を扱う技術を活かそうと、発酵工業やキノコ類などの研究開発活動がスタートしました。(写真は1970年頃の中央研究所)

    1970年イメージ 1970
    ブナシメジの大量栽培に成功

    新規事業の中で最初に成果が上がったのはブナシメジの大量栽培でした。日本全国の山野や海外を駆け回ってシメジの純粋分離菌株を集め、これをもとに1970(昭和45)年、ブナシメジ(写真)の大量栽培法を確立。この成功はキノコ栽培農家や農業団体から大きな驚きをもって迎えられ、中央研究所には栽培指導などの依頼が殺到。長野県経済事業農業協同組合連合会(現JA全農長野)と商業的栽培契約を結びました。

    2.宝焼酎「純」で焼酎復権

    1968年イメージ 1968
    「レッドタカラ」発売

    清酒、みりん、研究所が次々と成果を上げる一方、焼酎は低迷を続けましたが、焼酎復権に賭ける執念が尽きることはありませんでした。技術陣は「最高級のブランデーに勝るとも劣らない焼酎」をめざして、1968(昭和43)年、今日のニュータイプ焼酎の原型ともいえる黄金色の焼酎「レッドタカラ」(写真)を開発。焼酎愛飲家の間で高い評価を受けました。

    1977年イメージ 1977
    白色革命と宝焼酎「純」の誕生

    1970年代、アメリカでウォッカの消費量がバーボンを上回ったことで世界的な注目を集めた白色革命(ホワイトレボリューション)。蒸留酒をめぐる新しい潮流は必ず日本にもやってくる。その時、日本で白色革命を担い得るのは焼酎以外にはない─そう確信した寳酒造は、全社一丸となった開発体制で、「あるかなきかの香りとのどごし」を体現する新たな焼酎の開発に全力を注ぎました。「世界はいま、『純粋』の時代へ向かっている」のキャッチコピーどおり、自然なうまみとまるみ、ほのかな香りを併せ持ちながら、最高にピュアな味わいを実現した無色透明の焼酎「純」が誕生。1977(昭和52)年、満を持して発売された宝焼酎「純」(写真上)は大ヒットを記録し、長年の宿願だった「焼酎復権」をついに実現しました。(写真下は宝焼酎「純」新製品発表会)

    1979年イメージ 1979
    「カムバック・サーモン・キャンペーン」が始動

    北海道・豊平川は、かつて多くのサケが産卵のため遡上していましたが、流域の都市化によって汚染が進み、一時は全くサケの姿が見られなくなっていました。しかしその後、わずかに遡上が確認されるようになり、これを機にサケを呼び戻す市民運動が本格化しました。この運動に共鳴した寳酒造は、販売促進の一環として支援を決定し、1979(昭和54)年から「カムバック・サーモン・キャンペーン」を展開。宝焼酎「純」のボトルに「カムバック・サーモン」のスローガンを刻み、売り上げの一部を事業支援のために寄付。のちの社会貢献活動の起点となりました。(写真はキャンペーン・ポスター)

    1984年イメージ 1984
    「タカラcanチューハイ」が大ヒット

    宝焼酎「純」のヒットは、凍らせて飲む、ミックスして飲む、といった焼酎の飲み方を提案しました。これが、新しいドリンクファッションとしてチューハイブームへとつながっていきます。1984(昭和59)年に発売した「タカラcanチューハイ」(写真)は、CMにジョン・トラボルタを起用し、鮮烈なデビューを飾りました。宝焼酎「純」に続くヒット商品として、酒類市場にソフトアルコール飲料という新たなジャンルを創造しました。

    3.海外酒類事業の始まり

    1971年イメージ 1971
    スコッチウイスキーを、紹興酒を日本へ

    1971(昭和46)年、スコッチウイスキーの輸入自由化に伴い、スコットランド有数のモルトウイスキーメーカー、トマーチン社と提携。同社が保有する豊富なモルト原酒から日本市場に適したものをブレンドし、オリジナルスコッチ「BIG"T"ゴールド」(写真左)を製品化しました。また、世界三大美酒の一つとされる紹興酒にも着目し1976(昭和51)年から「塔牌(とうはい)」(写真右)ブランドの輸入販売を開始。日本国内における紹興酒のトップブランドに育成しました。

    1982年イメージ 1982
    米国清酒市場に参入

    1980年代以降、アメリカでは日本食がブームとなり、清酒への関心も高まりつつありました。1982(昭和57)年、米国清酒市場への参入をめざし、アメリカの清酒メーカー・沼野酒造(株)に資本参加。翌年米国宝酒造(株)に改称して、カリフォルニア産「松竹梅」(写真)の製造・販売を開始。原料米も水質も日本国内と異なる清酒製造は容易ではありませんでしたが、製造工程を全面的に見直すなど創意工夫を重ね、国内と同レベルの酒質の実現に成功しました。

    1991年イメージ 1991
    日本企業として初めてバーボンメーカーの経営に参画

    米国清酒市場への参入、スコッチウイスキーの製造・販売など、海外展開が本格化するなか、1991(平成3)年には、「ブラントン」(写真)などのバーボンウイスキーの輸入販売で提携していた米国のエイジ・インターナショナル社の親会社であるAADC社に資本参加。また、翌年にはAADC社の全株式を取得し、傘下に迎えました。

    4.バイオ事業スタート

    1979年イメージ 1979
    制限酵素で遺伝子工学研究分野に進出

    焼酎、清酒、みりんに続く第4の柱として辿り着いたのが、遺伝子工学技術を中心とするバイオテクノロジーでした。遺伝子工学実験に不可欠な研究用酵素の需要が高まるなか、寳酒造はDNAを切断する"はさみ"の役割を果たす制限酵素に着目。大学研究機関の指導の下、1979(昭和54)年、4品目を国内で初めて製造・発売し、この年に7品目の制限酵素を製品化しました。翌1980(昭和55)年には、DNA断片をつなぐ"のり"の作用をもつ「DNAリガーゼ」を発売。その後も制限酵素をはじめとする遺伝子工学研究用試薬を欧米各国に輸出するなど、本格的にバイオ事業をスタートしました。(写真は国産初の制限酵素カタログ)

    1988年イメージ 1988
    PCRで「バイオの宝」へ

    徐々に地歩を築き始めたバイオ事業は、PCR法(ポリメラーゼ連鎖反応)との出会いによって、飛躍のきっかけを掴みました。PCR法とは、耐熱性のDNA合成酵素(ポリメラーゼ)を用いて、超微量の遺伝子(DNA)を試験管内で短時間に100万倍以上に増幅する方法。日本で先んじてこれに着目し、1988(昭和63)年、PCR法による遺伝子増幅システムの国内独占販売権を獲得。宝のバイオ事業は一躍脚光を集めました。(写真はサーマルサイクラー:PCR装置)

    1988年イメージ 1988
    販売代理店制度を構築

    遺伝子工学研究用試薬(写真上)の販売は、当初、直販方式でスタートしましたが、PCR装置の販売にあたり、より迅速で柔軟な販売対応が求められるようになりました。そこで、1988(昭和63)年より販売代理店制度を開始。PCR法の普及にあたって、代理店と協力して実施したデモ販売が大変効果的で、PCR製品販売の好影響もあり代理店販売網は早々に完成。現在も代理店との強固な協力体制を築いています。(写真下はバイオ総合カタログ)

    5.飲料事業参入、そして競争時代へ

    1984年イメージ 1984
    第7代社長に久木田稔が就任

    1984(昭和59)年、久木田稔(写真)が第7代社長に就任しました。久木田は翌年の創立60周年を機にCIを導入し、酒類・薬品(バイオ)・食品の3事業で総合発酵企業をめざす方針を明らかにしました。

    1986年イメージ 1986
    「バービカン」発売、飲料事業参入

    食品事業の中核商品として1986(昭和61)年に打ち出したのが「バービカン」(写真左)でした。ビールの味わいはそのままに、アルコール分を取り除いたノンアルコールビールは、健康志向の強い欧米で消費者の支持を集めており、そのトレンドを掴んで開発したものでした。さらに、「think health」のキーワードのもと「健康」に焦点をあてた独自商品として、機能性飲料「カルシウムパーラー」(写真右)を発売。1993(平成5)年には、厚生省(当時)から特定保健用食品の表示認可を受けました。また同年発売した果実飲料「すりおろしりんご」は、ネーミングのユニークさも相まってヒット商品となりました。しかし、競争の激しい飲料市場では優位性を発揮できず、のちに事実上撤退し、新たに健康食品事業として再構築を図ることとなりました。

    1988年イメージ 1988
    第8代社長に田邊哲が就任

    1980年代後半、日本の酒類業界を取り巻く環境は厳しさを増しました。EC(当時)などによる酒類市場開放のための酒税法改正の圧力が強まり、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)はウイスキー等と焼酎の税率格差是正を勧告。さらに、酒類小売免許の規制緩和や清酒の級別廃止など制度改革も相次ぎました。1988(昭和63)年、第8代社長に就任した田邊哲(写真)は、こうした環境変化に対応するため事業部門制の導入など事業改革を積極的に推進。そして、1990(平成2)年には第1次中期経営計画を策定し、来るべき競争時代に備えました。

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